なかなか人間シリアスにはなれない
日曜日くらいから、ニュースを読む時間が増えた。
もちろんウクライナについて。
おとといあたりから急にトーンダウンしたけど、日曜日時点では「9.11以来の大事件じゃん!」とか「いまさら冷戦のリベンジマッチかよ 」とか、本気でビクビクしてた。
しばらくはBBCのとりこ。9.11の時と違ってよその国のニュースを直に見られるのに驚いた。進化したなぁ、世の中。大人になったなぁ、自分。
取り敢えずアメリカさんも「経済、外交的」制裁って言ってるし、ロシアさんも「クリミア併合しない」って明言してるし、安心安心。
そんなにビクビクしながら選んだカタログギフト5000円分(友人の結婚式で当たった)はヤマハのハーモニカ。10日くらいで届くそうな。
何でそれにしたのか自分でも良くわからない。
吹けなかったらどうしよう、と心配になってしまう。
世界大戦の心配をしつつハーモニカの吹き方を調べている人間がいるとは、恐れ入る。
なかなか人間シリアスにはなれない。
雪の影の色、穴掘り
記録的な大雪。ここしばらくは家で会社で雪掻きばかりしていた。
道路が全面封鎖されてスーパーにもモノが全く入らないので、作り置きのカレーばかりを食べている。
1mくらい積もった雪を掘る。その間、ずっと物語の中の穴掘りのシーンを思い出していた。「ニュークリアエイジ」「ねじまき鳥クロニクル」「星のさみだれ」あと一次大戦の塹壕のこと。
一つ気づいた。雪の影について。
雪が雪の上に作る影は青く見える。他のものが雪に作る影は黒いのに。
午後になって雪が湿り気を帯びてくると、一層ほの青く見えた。不思議。
仮説その①
太陽光が雪に反射されると青い光になる説。雪=水=OH基は赤+赤外の光を吸収した気がする。雪に反射された青い光が別の雪の上に落ちている説。
仮説その②
空が青いのと同じ現象説。雪の微結晶に青い光が散乱されて周囲が青く見えている説。これだと「湿った雪=水+結晶ぎっしりな雪」 の方が青い色なのも納得。
答えはわからないけれど、仮説が立つのがすき。
こども電話相談室に訊いてみよう。
針葉樹林だった頃から
雪が降っている。
埼玉とは思えない大雪。
午前は散歩がてら会社に行って、ちょっと仕事をした。会社まで歩くのが、以外に楽しい。
工場敷地内の坂で、子供たちがそり遊びをしていた。「すごい滑るね。」と声をかけたら、いそいそと何処かに行ってしまった。
立ち入り禁止といえば禁止だけど、車も絶対来ないし、別に怒らないのに。
帰り際、会社の横の森を見ながら帰る。雪が積もった笹の下に、ウグイスを見つけた。
動きが遅くて、近寄っても逃げなかった。
雪の針葉樹林って、どうしてこんなにいいのだろう。
『ばくぜんとおまえが好きだ 僕がまだ針葉樹林だったころから』東直子
人格者になるには、善を成すには
「人格者になりたい」と姉は言った。
これを聞いた時に感じた違和感について書く。
姉の批判云々以前に、「人格者は人格者を目指したりはしない」とか、「お前には無理だ・・・」とか、色々言いたいことはあった。
しかし、それよりも強く感じたのが、「人格者であるよりも、善を成すことの方が大事だろう。」ということ。
では、自分はどうして人格者であることの価値を低きに置くのだろう、と考えるとなかなか面白い。
「人格者」は他者の評価を必要とするが、「善を成す」ことは他者から独立した行為だと思う。
「人格者」になるには周りから、正しい、素晴らしい、という承認が必要。自分だけが信じてる善行(毎朝太陽と両親に感謝の踊りを捧げてから家を出る、とか?)を行う人は「人格者」ではないだろう。
「人格者」になるためには、周囲からの肯定を必要とする。
だから周囲の人間が善であるという前提でなければ人格者が「善をなす」ことは出来ない。
例えばの話、偏った倫理観を持つ国の人間が指す「人格者」とは偏った人間のことだろう。
慣習、宗教法に則り、娘がレイプされたら娘を殺す社会での「人格者」とは、レイプされた娘を殺す父親のことになる。
では「善を成す」はどうか。
先の例を引けば、周囲の慣習や宗教法に逆らってでも自分が理性的に正しいと考えたことを実行することこそ「善を成す」になる。
人格者を目指すよりもこちらの方が遥かに大事なことなんじゃないだろうか。
要するに、「人格者を目指す」ということは、自分以外の他者に善悪の判断を委ねることを容認する、に等しい。
僕には、「他人の評価と関係なく、善いことをせねばならない」、もっと言えば「善であることを成すには、他人からの非難は避けられない」という感覚がある。
例えば自分が「年配の正規雇用かつ単純労働職の人間の給料をもっと下げろ、その代り、同レベルの仕事を低賃金でしている多くの人をもっとキチンとした雇用契約で雇え」と言ったとする。そしたら僕はもう「人格者」とは呼ばれないだろう。
最後に余談。
前述した姉と僕とのセンスの差は、周囲の環境に対する認識が以下のように違っていることを表してるんじゃなかろうか。
姉の場合は「人格者になりたい」=「周りにいる、素晴らしい人間に認められたい。自分も素晴らしい人間になりたい」
僕の場合は「善を成したい」=「掻き分けても掻き分けてもゴミの山。そこで善いことをするにはどうすれば良いか。」
自分の世界観、かなり暗い。
血のつながりと甘え
少し前に、芸能人が子供のDNAを検査した結果、自分の子供ではないことが発覚した事件があった。
僕としては、「でも十何年も面倒見てたら、もはや実子じゃなくても関係ないよね」というのが初めに出てきた感想だった。
しかし、本当にそうかね。
もしも自分が実子じゃないと知ったとしたら、やはり今みたいに親と接することはできない気がする。
たとえば、親からの電話を無視したり、老後の面倒に関して無責任な態度をとったり。
こんなことは出来ないだろう。
自立したいい大人のつもりでいるが、結局のところ、未だに親子という関係に甘えているのかもしれん。
「ぼくらの」という漫画に、養子として育てられた女の子の話がある。
その子が実の妹に暴力を振るうクラスメイトに言った台詞を思い出した。
「あんたは血がつながってるって安心感に甘えてる。(中略) お父さんがあたしを叩くのに、どれだけ勇気が必要かわかる?」」
water is wide
スコットランド民謡らしい。
原詞とyamatakaお手製のてきとー訳詩は以下。
『The water is wide』 遠い水面
The water is wide, I cannot cross o'er, 遠い水面の向こうへと
But Neither have I the wings to fly. 私に翼が無いならば
Give me a boat, that can carry two, ボートが一艘あればいい
And both shall row, それなら漕いでいけるから
my love and I. あなたと私、二人だけで
The Water Is Wide(Traditional)with lyrics-Karla ...
後半は暗いので割愛。
そして僕らは平凡に幸せになった
大変遅れながら、ジャンプで連載していた西尾維新 原作の漫画「めだかボックス」の最終巻を読んだ。
ジャンルは「シュール能力バトル漫画」
文学好きで通してる身としてはおおっぴらに言い辛いが、自分はこの作者さんの10年来の大ファンだ。
この人の物語の終わりはいつも決まっている。
天才的だったり、強烈な人格を持っていた人間が、物語の中で人間として成長する。
そして成長と引き換えにその天才的な能力だったり、個性を失って普通の人になる。
彼らは『普通の』『幸せな』人になる。
これが少しさびしくて、僕はとても好きなのだ。
作中の台詞曰く
「苦労しなければ手に入らないものがあるように、満たされることで失うものもある」
大人に成長すること、普通に幸せになること。それは寂しいことだ。
嘘しか言わない虚無主義者が、恋人を大事にする立派な社会人になり、
この世を手にしているかのように楽しげな少女ハッカーが、ただの愚鈍な女になり、
同級生の口をホチキスで縫い付けた女が、平凡な可愛い彼女になり、
息をする様に人を殺した少年が、誰も殺さないままで死んでいく
現実でもよく似た例はあるんだろう。
切れそうな位危うげで綺麗だった女の子が、ただの快活な美人になり、極めて自由だった男の子が、極普通のお父さんになる。誰にもそれを非難する事は出来ない。
『子供の頃使えた ささやかな魔法が使えなくなる』、それだけの話。
この人の作品を読み終えるたび、自分はこれまでどんな人間に成ってきて、これからどうなるのだろう、と思う。
以下、めだかボックスのなかから、自分のお気に入りの台詞集
《差別するなよ。悪い奴を差別
《 めだかちゃんは、人を疑うことを知らないんじゃない 。人を信じることを知ってるんだ! 》
《 たとえばの話だけどさあ「人生はプラスマイナスゼロだ」――って言う奴いるじゃん。エリートでも喜んだり悲しんだりするとか、幸福な人間もそれ相応の大変な苦労を積み重ねているとか、だから人間はみんな平等だって言いたいんだと思うけど。でも「人生はプラスマイナスゼロだ」って言う奴は決まってプラスの奴なんだ 。》
この漫画のうちのホンの一部だけでも、自分の人生の糧に出来たらすばらしいと思う。
ホントに好きなんだ。