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風に向かって 壁に向かって

風に向かって書くように。壁に向かって話すように。日記や考え事の中身を書いたり、気に入ったものの紹介をしています。どちらかといえば個人的に。

人格者になるには、善を成すには

「人格者になりたい」と姉は言った。

これを聞いた時に感じた違和感について書く。

姉の批判云々以前に、「人格者は人格者を目指したりはしない」とか、「お前には無理だ・・・」とか、色々言いたいことはあった。

 

しかし、それよりも強く感じたのが、「人格者であるよりも、善を成すことの方が大事だろう。」ということ。

 

では、自分はどうして人格者であることの価値を低きに置くのだろう、と考えるとなかなか面白い。

 

 

「人格者」は他者の評価を必要とするが、「善を成す」ことは他者から独立した行為だと思う。

 

「人格者」になるには周りから、正しい、素晴らしい、という承認が必要。自分だけが信じてる善行(毎朝太陽と両親に感謝の踊りを捧げてから家を出る、とか?)を行う人は「人格者」ではないだろう。

 

「人格者」になるためには、周囲からの肯定を必要とする。

だから周囲の人間が善であるという前提でなければ人格者が「善をなす」ことは出来ない。

例えばの話、偏った倫理観を持つ国の人間が指す「人格者」とは偏った人間のことだろう。

慣習、宗教法に則り、娘がレイプされたら娘を殺す社会での「人格者」とは、レイプされた娘を殺す父親のことになる。 

 

では「善を成す」はどうか。

先の例を引けば、周囲の慣習や宗教法に逆らってでも自分が理性的に正しいと考えたことを実行することこそ「善を成す」になる。

人格者を目指すよりもこちらの方が遥かに大事なことなんじゃないだろうか。

 

要するに、「人格者を目指す」ということは、自分以外の他者に善悪の判断を委ねることを容認する、に等しい。

 

僕には、「他人の評価と関係なく、善いことをせねばならない」、もっと言えば「善であることを成すには、他人からの非難は避けられない」という感覚がある。

 

例えば自分が「年配の正規雇用かつ単純労働職の人間の給料をもっと下げろ、その代り、同レベルの仕事を低賃金でしている多くの人をもっとキチンとした雇用契約で雇え」と言ったとする。そしたら僕はもう「人格者」とは呼ばれないだろう。

 

最後に余談。

前述した姉と僕とのセンスの差は、周囲の環境に対する認識が以下のように違っていることを表してるんじゃなかろうか。

 

姉の場合は「人格者になりたい」=「周りにいる、素晴らしい人間に認められたい。自分も素晴らしい人間になりたい」

僕の場合は「善を成したい」=「掻き分けても掻き分けてもゴミの山。そこで善いことをするにはどうすれば良いか。」

 

自分の世界観、かなり暗い。